ロマンチック街道とヴェルニッツ川の出会うところに広がる、中世の防御設備に守られた帝国自由都市が「ディンケルスビュール。見所(城壁内)は2キロ以内でとても狭いので、小一時間で観光出来る。余りツアーでは寄らない街なので、日本人観光客の数も少なく、もう少し滞在したいなと思えるような落ち着いた可愛い街。建物と看板は、戦災に遭っていないので、中世から続く木組みの建物が多く、とてもドイツらしい趣がある。看板は、ドイツ・オーストリア・スイスによく見られる装飾的なもので、元来店の仕事を象徴している。
「ディンケルスビュール」が、初めて歴史書に登場するのは1188年で、「ディンケルスピューヘル要塞地」として言及される。13世紀になると現存する、最古の防御設備が築かれる。14世紀になると織物業がディンケルスビュールの主要産業としておおいに発達し、15世紀末には聖ゲオルグ教会が建てられる。1632年(30年戦争の中)にディートリヒ・フォン・シュペロイト大公の率いるスウェーデン軍がディンケルスビュールを包囲する。当時カトリック系の議員で構成されていた市参事会は長い間降伏を決めかねており、業を煮やしたシュペロイト大公は町を略奪・焼き払おうとする。が、塔の見張り番の娘ローラとディンケルスビュールの子供たちがシュペロイト大公に跪いて慈悲を請う。心を動かされたシュペロイト大公は子供たちの願いを受け入れ、町の略奪と破壊をあきらめる(現在はこの話は「キンダーツェッヒェ(Kinderzeche)」としてよく知られており、毎年夏にお祭りが開かれる)。しかしこの30年戦争以降、「ディンケルスビュール」は主要都市としての重要性を失う。その後、1826年にバイエルン王ルートヴィッヒ1世が町の防御設備の破壊を禁じ、さらに第2次世界大戦時には何ら被害を受けなかったことから、ディンケルスビュールは現在も中世の防御設備を残す町となっている。「ディンケルスビュール」はオリジナルのままの中世の町として、ローテンブルクと同様に人気のある観光地なのだが、交通の便が悪いことでも有名(鉄道はない)。(紹介サイトより、抜粋・転載)