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公山城

 4.2  |  韓国 | 名所
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日本と関わりの深い百済の古城

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公山城の壁沿いはずっと歩けます

公州市(コンジュシ)に入れば、大きな川沿いに大きな城郭が目に入ってきます。公州市を代表するその川は、三国時代に百済にとって大切な水上交通路でもあった錦江(クムガン)と呼ばれます。錦江を背にして円状に延びている城壁が、史跡第12号にも指定されている、公山城と言われる百済の古城です。
475年に高句麗(コグリョ)に追われ公州まで遷都し、文周(ムンジュ)王、三斤(サングン)王、東城(トンソン)王、武寧(ムニョン)王、聖(ソン)王までの5代の約64年間王都を守り続けました。本来は公山城ではなく、熊津(ウンジン)城でしたが、公州も高句麗に攻められ、高麗時代に現在の名に改名されました。そして、現在、約1500年の時を越え、その古代城郭は今も残され続けています。
錦江の海抜100mの山頂に位置し天然の軍事的防備施設で、東西に焼く800m、南北に約400mの長円状に造られています。公山城は、稜線と渓谷に沿って造られ、元は谷を包む形の土城でしたが宣祖・仁祖(ソンジョ・インジョ)時代に現在の石城に改築されました。見た目からして、大きく長く、その全長は約2.5kmでゆっくり歩いて周ると約2時間30分ほどかかるそうです。更に、現在では高さ約2.5m、幅約3.0mでほとんどが改修されました。城壁内は、所々に門や建物など約12ほどの王宮跡が残されています。また、公山城の見所は夜景にもあり、夜には錦江の上を架かる錦江橋と同時にライトアップされ、錦江の水面に投影されなんとも言えない美しさです。
その他にも、毎年春と秋の時期には熊津城守門兵勤務交代式等も行われます。そして、韓国3台文化祭の一つでもある、百済文化祭は、毎年10月に開催されます。祭典序幕式、民族遊び体験、パレード、仮装行列、文芸行事等、約100種の行事が公山城内で開かれます。公州市民や観光客も一緒になって楽しめるお祭りや、朝鮮時代の建物などを歩きながら感じられる公山城は、川と森に囲まれた癒される場所です。

 

 



役立つ情報


守門兵交代式 石碑 公州観光案内所 体験案内図
交代式案内 

毎年4月~10月の土日11:00~16:00に、西門である錦西樓(クムソル)で、守門兵の交代式が見られます。また、王や王妃、将軍などの衣装や小物を提供し、直接参加体験も出来るそうです。※7月と8月は残暑のためにお休みです。

錦西樓(クムソル)まで行く入口に、ずらりと並べてある石碑は、牧師さんの石碑だとか・・・

公州観光案内所

錦西樓(クムソル)のすぐ真下にある駐車場に、観光案内所があるので迷わないように最初に訪れておきましょう。地図や案内図がもらえます。

体験案内図

城内では百済時代にあった昔の遊びなどの体験ができるそうです。錦西樓(クムソル)を潜ったすぐに、案内図があるのでチェックしてくださいね!!



他情報


公山城公山城は百済の熊津城で、公州を守護した代表的な城郭である。
城郭の全長は2,660mで外城のを除いたら2,193mである。
現在の城壁は、高さ2.5m幅約3mで朝鮮時代に改築したものである。

公州市内の東北、錦江に架かる錦江橋の右側にあって、北に錦江が流れる海抜110mに位置 した天然の要塞として、東西約800m・南北約400mの長方形をしている。現在の遺構は百済時代の土城を、李氏朝鮮時代に石城に築き直されたもので、百済時代の土城は山頂の東側に一部残されているのみ。現在の呼び名である公山城は高麗時代以降のもので、城内には百済時代の王宮址(跡)や、蓮池、そして李 氏朝鮮時代の創建といわれる霊隠寺や、双樹亭、光復楼そして南門の鎮南楼、北門の拱北楼などが残っている。

楽しみ方

坂を登る手前でチケット売り場あります

一般 1,200ウォン(2010.11.04現在)



コース紹介


公山城案内図

公山城

西側に設置された錦西樓(クムソル)から、右回りで1周すると、約2時間30分ほどかかるそうです。所々にある門やお寺を、散歩しながら見る事ができます。

 ★南門から西門にかけて歩く♪

鎮南樓(ジンナムル) 木の枝案内版 双樹亭史跡碑 双樹亭(サンスジョン)

文化財資料第48号に指定され、公山城の南門です。朝鮮時代に、立て直され、この頃は「三南の關門」と呼ばれていました。

案内版

歩いているとこの様な案内版が所々に・・・ハングルだけど、どっちの方向に何があるのか示してくれています。

双樹亭史跡碑と双樹亭

道指定有形文化財第35号に指定され、李括の乱を逃れ仁祖(インジョン)が10日間非難した場所です。

双樹亭

文化財資料第49号に指定され、双樹亭史跡碑と同じく仁祖(インジョン)が、李括の乱を逃れ非難した場所です。仁祖(インジョン)が、双樹にもたれ、王都のことを心配し都に平和が戻ったことを聞き大喜びし、ここで通訓大夫の令を下したとも由来があるそうです。

 

推定王宮址 公山城蓮池 城壁 錦西樓(クムソル)

百済が、熊津(ウンジン)に都を移した熊津時代の初期大宮跡と推定される場所です。この場所で、百済の多様な遺物が発掘されました。

自然石を積み上げ、円形に造られています。深さ3m、地表面の直径7.3mで底部の直径は4,78mあります。

公山城の壁沿いはずっと歩けます

城壁の高さ約2,5m、幅約3mで全長2.660mという長さです。城壁沿いにあるけば、西門から南門にかけては、公州市の町並みが、西門から北門にかけては錦江の綺麗な情景が見渡せます。

西門にあたり、1993年に復元されました。駐車場や切符売り場からの最初の門になります。

基本情報
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公山城のタグ

記事最終修正日時
2013.03.07 07:58

Creative Commons — 表示 - 非営利 - 改変禁止 2.1 日本 — CC BY-NC-ND 2.1

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