扶蘇山は泗沘楼のある西北の送月台(104.9m)と、軍倉跡がある東南の迎月台(98.2m)と呼ばれる二つの峰からなり、東北には大きな谷がある。
扶蘇山城はこの二つの峰をそれぞれ取り巻く、二つの鉢巻式山城と、その外側の城壁をつないで大きくめぐる包谷式山城からなる複合型の山城といわれている。
迎月台を取り囲む山城を軍倉跡山城と呼び周囲約1400m、送月台を取り囲む山城は泗沘楼山城と呼び周囲約700mの規模。この二つの鉢巻式山城を繋いで大きく巡る包谷式山城は約2200mもある。入口を入ると直ぐに道が二つに分かれ、右の道を登ると程なく三忠祠があり、更に登っていくと迎日楼にたどり着く。みやげ物屋が何件か有り、そのまま道なりに進むと軍倉跡、半月楼を経て、泗沘楼、そして百花亭へと至り、そこから急な山道を下りると皐蘭寺を経て船着き場に着く。
落花岩の悲劇は今も語り継がれる、660年、百済滅亡の時、「白村江の戦い」で勝利した新羅-唐の連合軍のおびただしい数の軍勢が扶蘇山城へと侵入した、百済の女性たちは敵に蹂躙されるより死を持って節義を守ろうとこの落花岩から白馬江に身を投げたという。その数、3000人と言われ、その姿は花が散るようであったとして「落花岩」と名づけられたとのことだ。