釜山からバスで約2時間、固城の町はずれにある古墳群。
その内1号墳は、韓半島に前方後円墳が存在する説の発端となった古墳だが、最近の調査で、実は重なり合った3基の円墳だったことが、韓国・東亜大学校が1999年から2002年6月まで実施した発掘調査によって明らかにされた。
これまで1号墳は、測量や外観などにより前方後円墳と認識されていたが、発掘調査の結果、前方部は独立した円墳であること、また墳丘の括れとされた部分にも石室があることが確認された。
韓国での前方後円墳の分布は半島南西部の全羅南道・光州や霊岩など栄山江中流域に集中していて、現在までに10基前後の前方後円墳が確認されている。この地域は馬韓(後百済の領域となるが、かなり後の時代まで馬韓)の領域にあるが、松鶴洞1号墳のある半島東南部の慶尚南道・固城は伽耶の領域、この古墳のみが韓半島における前方後円墳の分布中心から外れていた。
松鶴洞1号墳が前方後円墳ではないことが確定したため、現状では韓半島の前方後円墳は全て栄山江流域を中核とする地域に存在することになった。しかしなぜこれらの前方後円墳が馬韓の領域に集中し、更に日本古代史の画期といえるに5世紀末~6世紀前期のものがほとんどであるのか。これら韓半島の前方後円墳の存在意義というものを解明することで古代の日韓関係、ひいては「記紀」などの文献資料に記載された「筑紫磐井の乱」や「継体王朝の成立」の解明に繫がるのではないか、と考えている。