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シンガポールの歴史

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サンスクリット語で「ライオンの町」と言う意味のシンガプーラ。

14世紀に書かれた2つの史料が最も古い記録となり残されています。

トゥマセクからシンガプーラと名前が変えられた理由ははっきりしないが、

小さい国ながらも多民族国家として現在も発展し続けています。

海賊時代から、世界大戦、占領時代、独立時代と様々な歴史を乗り越え、

現在の姿まで大きくなったシンガポールの歴史を改めて学んでみましょう!

 

 

 

時代

内容

 

 

トマセック

 

7世紀以降にはトマセックと言う魚村として知られ、マレー半島の先端に位置していた事もあり、

多くの船舶が行き交っていた。トマセックと呼ばれた時代が何時頃から何時頃までかははっきり分からず、

少なくとも14世紀頃まで呼称されていたそう。

 

 

 

シンガパーラ

 

14世紀末には、トマセックからシンガプーラ(ライオンの町)と定着され、 シンガポールと言う現在の名称の由来にもなる。

名前が変わった説は色々とあり、シンガ(寄港)と言う単なる寄港地と言う意で着けられたとも言われている。

他にも、シュリーヴィジャヤ王国の王子が動物とライオンを見間違えて着けられたと言う説もある。

 

 

ムラカ王国支配

 

 

スマトラ西海岸のマジャパヒト王国で内戦が起き、パレンバン王子がシンガプーラに逃げ込み、5年ほど住んだ後、

ムラッカ(マラッカ)に移り、ムラカ王国を建設しシンガプーラをその支配下に置いた。

 

 

ポルトガル侵略

シンガプーラ滅亡

 

 

 

ムラカ王国滅亡後、シンガプーラに王族や商人が移った事で、ポルトガルが、1613年シンガプーラを徹底破壊した。

その後300年間は、少数の漁民、海賊が住む島となった。

 

 

ラッフルズ上陸

 

1819年、約150人程しかいない島にイギリス東インド会社で書記官ラッフルズが上陸する。

地理的重要性に着目し、当時支配していたジョホール王国に商館建設の許可を得て、シンガポールと改めた。

 

 

 

イギリス植民地

 

 

シンガポールと改名後、都市計画を進め1824年に植民地としてジョーホール王国から正式に割譲。

無関税の自由港政策を推し進めシンガポールの人口が1万人突破し急速発展。

1826年に海峡植民地に、1832年にその首都と定められ、インド、インドネシア、中国から多くの移民が、

マレー半島やシンガポールに渡来し多民族国家の起源となる。

 

 

 

日本占領 

 

1914年太平洋戦争が始まるとイギリス極東軍が日本陸軍に攻撃を受け、イギリス極東郡司令官が無条件降伏した。

シンガポールの戦い後、日本陸軍による軍政が敷かれ、昭南島(しょうなんとう)と改名された。

その後も中国系ゲリラによりゲリラ活動を受け、反日ゲリラや支援者とめされた中国系住民を指定地へ集合させ、

シンガポール華僑虐殺事件が発生し、1967年に「血債の塔」が完成し、千人~二万人もが虐殺された。

 

 

イギリス植民地

 

1945年8月日本が敗戦し、第2次世界大戦が終結し日本軍が撤退したが、再びイギリス軍が植民地支配を継続。

そのため、シンガポールの独立は達成ならず、イギリスに対する地元住民の反感が強くなる一方で独立運動が続いた。

 

 

 

マレーシア連邦

 

 

マレー半島の独立運動を抑える力がなくなったイギリスが植民地支配を放棄、1957年にマラヤ連邦が独立。

1959年にシンガポールはイギリスの自治領となり、1963年にマレーシア連邦を結成。

しかし、マレーシア中央政府とイギリス植民地時代の華人が人口の大半を占め、

マレー人と華人の平等政策を希望するシンガポール人民行動党の間が激化する程、仲が悪くなり、人種暴動が発生。

 

 

 

分離独立

 

1963年選挙にてマレーシア政府与党の統一マレー国民組織UMNOとシンガポール人民行動党PAPの間で選挙戦展開。

関係が悪化し、マラヤ連邦のラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、両首脳合意の上、

1965年にマレーシア連邦から追放される形になり、都市国家として分離独立しシンガポール共和国となる。

 

 

ASEAN結成

 

 

シンガポール近隣の4カ国とともにASEAN(東南アジア諸国連合)を結成し、周辺諸国との友好関係を確保。

 

 

先進国へ発展

 

 

1960年代の世界的な投資ブーム・貿易拡大が、シンガポールの貿易・金融を急成長させ、外資誘致も順調に。

中でも日本企業の誘致に力を入れめざましく成果をあげ、独立後30年間驚異的な経済発展を続け、先進国へ。

1972年に失業が解消、労働力不足となり外国人労働者が増え、国民生活にゆとりができ安定的に。

 

 

2言語教育

 

 

1980年代初めにタミール語校、マレー語校、1986年には華語校ガ消滅し、国民統合が達成された。

各民族の伝統が失われる事を心配し、民族別にそれぞれの言語を必修とする2言語教育が実施される。

 

 

シンガポールの歴史に触れられる名所】

 

 

マーライオン公園

シンガポールのシンボルでもあるマーライオンは、その昔、マレーシアの王族が対岸の大地を目指し航海の旅に出た際、途中激しく荒れ、王族が被る王冠を海に投げたところ海が静まり無事に大地に到着でき、ライオンが現れ王族に大地を治める事を許したという伝説がある。

以来、マーライオンはシンガポールの伝説の動物、シンボルとなった。

 

 

 

ラッフルズ卿彫像

シンガポールが誕生した第一歩がこのラッフルズ卿が、この地に辿り着いたからです。

ラッフルズ卿彫像がある周辺が、シンガポール誕生エリアです。

白いラッフルズ卿の足元には銘文が刻まれ、黒いラッフルズ卿像もあり、

国会議事堂前にあったのを上陸100周年の際、ビクトリア・コンサート・ホールとシアター前に移動された。

 

 

サリンブン海岸上陸

日本軍は、マレー作戦には第5師団、第18師団、近衛師団が基幹兵力として参加しました。

シンガポール防衛の責任者であるパーシバル将軍は、日本軍がシンガポール島と北東部(コーズウェイからウビン島にかけて)から攻めてくると判断しており、その結果、主力部隊を北東部に配置しました。

 

クランジ・バトル

ここに日本軍が最初に上陸した場所と言われていますが、

いろいろな資料を調べてみるとこの場所には上陸していないとの事。

斥候部隊が上陸した可能性はありますが、本隊が上陸したのはこの場所の西方にある、

今のスンゲイ・ブロー湿地公園 (Sungei Buloh Wetland Reserve) 以西のはずだが、

この記念碑は、堤防でクランジ河をせきとめたクランジ貯水池の中洲にあります。

 

 

ジュロン・クランジ防御線

ジュロン・クランジ防御線というのは、クランジ河からジュロン河を南北を結んだ線で、

日本軍を食い止める意図で、英連邦軍が戦線を形成したものです。

ジュロン・クランジ防御線の記念碑は、11個のうちの3番目で、この記念碑のある場所は、
Jurong West Ave 2の近くですが、記念碑に行くためにはCorporation RoadからJurong West Ave 1を経由しなければなりません。

 

 

昭南忠霊塔の跡地

昭南忠霊塔は、日本軍がシンガポールを占領したあとに、山下将軍の命令のもとに建立されたものだそうです。日本軍の戦死者のための慰霊塔の他に、連合軍戦死者の為の慰霊塔(木製の十字架)も作られたとのこと。これらは、終戦直後に、日本軍の手により爆破されたそうです。今残っているのは、コンクリートの階段のみのようです。

 

 

ラブラドール・バッテリー

シンガポールには、World War II Sites of Singaporeという11箇所ある記念碑の第6番目のがここにあります。場所は、シンガポール本島の南端に近いところ、セントーサ島の本島側です。

正確に言うと、セントーサ島の西端にあるシロソ砲台の向かい側にあります。

ラブラドール砲台とシロソ砲台は兄弟のようなもの、ケッペル港へ入る西側の水道を守るための砲台群です。

 

 

ジョホール・バッテリー

シンガポールの東端チャンギに位置する砲台です。

この砲台には15インチ(38cm)という巨砲が3門設置されています。

現在残っているのは本物のではなく、外形を似せただけのレプリカです。

ジョホール・バッテリーに配置された3門のうち2門は、マレーシア半島側にも砲撃が出来、

実際にシンガポールに進攻してきた日本軍に砲火を浴びせたそうです。

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記事最終修正日時
2013.03.07 07:58

Creative Commons — 表示 - 非営利 - 改変禁止 2.1 日本 — CC BY-NC-ND 2.1

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