■慶州 の紹介。
慶州地域は都市全体が「屋根のない博物館」と呼ばれる程、輝かしい文化遺産が散在しています。朝の日差しが最も先に着く慶州は992年間新羅文化の花を咲かせた所です。
新羅は百済と高句麗の文化を吸収融合し、特に唐の文物を受け入れながら独自の文化を形成し、新羅文化の黄金期を迎えるようになりました。
燦爛な仏教文化と新羅人の独創的な文化は様々な芸術的の傑作品を残されました。仏国寺、石窟庵、南山地区、月城地区、大陵苑地区、皇竜寺址地区、山城地区は世界文化遺産に登録されています。
千年古都の歴史巡りと国際的な観光リゾートである普門観光団地を結ぶ慶州の旅は楽しい旅行をひとしお豊かに彩ります。
■仏国寺・ブルクッサ
慶州の吐含山の麓にある仏国寺は石窟庵と共に、護国の念願を達するために新羅第35代景徳王10年(751年)、当時宰相である金大成によって設計、創建されたお寺です。 世界文化遺産に指定されている仏国寺は、現在もスケールの大きな寺院ですが、最盛期の8世紀には総2000間の60余棟の木造建物に成り立った壮大なスケールを誇っていたといいます。 三国統一後、国が最も安定になって文化が栄えた時期に仏国寺は建てられ、仏国という言葉は、すべてが完全に備わった安楽と清潔な国になろうとする願いの意味が込められています。以降、高麗と朝鮮時代に何度か補修・改修が行われながら650年間引き続いた仏国寺は、1592年壬辰倭乱(文縁の役)の際に多くの建造物が焼失しましたが、仏教芸術の粋と讃えられた美しさは今も変わることはないのです。
戦争で国力が傾いた後、崇儒抑仏政策で仏教が弾圧され、新羅の精神を生かすことが出来なくなったのです。 その後、紫霞門、梵鐘閣、大雄殿、極楽殿などがようやく残っていましたが、1969年発掘調査後、無くなった無説殿、観音殿、毘盧殿、経楼、回廊などが1973年の改修工事によって復元されました。仏国寺は、高い築台の上に平地を造成して、そこに殿閣を建てた代表的な伽藍で、寺院を支える基壇石段の整然とした造りと石塔、それに見事な木造建築の美しさか印象的で、石と木の調和が荘厳な雰囲気を醸し出します。
現在の境内は大きく三つの区域に分かれ、各区域は一つの理想的な彼岸世界である仏国を形象化したものです。大雄殿区域は現世仏である釈迦牟尼仏の「法華経」の彼岸世界、極楽殿の区域は極楽浄土を主宰する阿彌陀仏の「無量寿経」の世界、毘盧殿の区域は法身仏である毘盧遮那仏の「華厳経」の蓮花蔵世界を現したものであります。
1995年に世界文化遺産に指定された仏国寺は、新羅の全盛時代の最高の傑作品で評価されています。
■石窟庵・ソックラム
新羅千年の歴史と息遣いがこもた石窟庵は、統一新羅の文化と科学、宗教的な情熱の結晶体であり、国宝の中でも最上なものとして見なされる文化財です。
石窟庵は、吐含山の麓に位置して、仏国寺から山頂に車で約7.5km向かう途中にあります。新羅の景徳王10年(751年)、仏国寺の創建と同様、宰相金大成によって石仏寺という名前で創建されますが、彼が亡くなった後、国が工事を引き受けて完成させたものです。
金大成は、前世の親のために石仏寺(石窟庵)を創建し、現世の親のために仏国寺を建造されたのです。石窟庵は花崗岩を手入れし、それを積み上げてドームの型に築いてからその上に土を覆いかぶせ、まるで洞窟のように見えるように建てられた石窟寺院であります。石窟庵の構えは大きく、前室の四角い空間と丸型の主室に分けられており、主室には本尊仏である釈迦如来坐像と共に菩薩像と十大弟子像が安置されてあり、前室には仁王像と四天王像などが彫刻されています。
石窟寺院でありますが、一つのお寺を圧縮した形となって、寺刹建築が持つ格式を取り揃え、一つの仏国浄土を成し遂げたのであります。圧巻は高さ3.4mの釈迦如来坐像で、花崗岩を丸彫りした仏教美術史上最高の傑作。温和な表情と全体の調和は、まるで体温が感じられそうな存在感があります。
石窟庵が創建されてから、高麗や朝鮮時代には大きな変化なく創建当時の姿を維持して来ましたが、日本の植民地時代の1913年から3回の復元工事が行われ、石窟の全体を解体してから組み立て方が間違ったため、今となっては仏像の位置と石窟庵の正確な構造が全く分からなくなってしまったのです。
石窟庵は湿気が多い自然の障害を乗り越えて、自体的に換気と湿度を調節できる能力を持っていましたが、補修工事の際に石窟の周りをコンクリートで固められてしまって、石窟の内部に湿気がたまる原因となってしまったのです。そして、人為的な換気装置を設置して湿気や温度を調節しなければならない状態に至ってしまったのであります。
韓国仏教美術を代表する世界的な傑作品として認められている石窟庵は、1995年に仏国寺と共に、ユネスコによって世界文化遺産に指定されています。
■天馬塚
<天馬塚>は1973年4月に発掘が始まり、8月に発掘され発表される前までは155号古墳と呼ばれていました。
装身具類8,766点、武器類1,234点、馬具類504点、器類226点、その他796点で総1万1,500点余りの遺物が出土され、この中の一部が国立慶州博物館別館に保管されました。発掘された遺物の中で金冠と天馬圖障泥が大きな話題になりました。
金冠は今までに発見された新羅時代の金冠の中で金版が一番厚く、金の成分も優秀だと判明し国宝第188号に指定されました。天馬圖障泥は天馬塚出土品の中で世間を一番多く驚かせた遺品です。障泥(あおり)と言うのは、馬の両腹に泥よけとして下げるもので、置物としても使われたといいます。
白華の皮を何枚も重ねて縫い合わせ、その上に空を飛ぶ天馬を熟練した腕前で描いており、今まで絵画資料が全く発見されていない古新羅時代の唯一の美術品です。天馬塚の名称の由来となった絵画でもあります。
今はこれらを見ることができるように墓の内部を修復して公開しています。
■瞻星台
新羅時代天文を観測した瞻星台は東洋最高の天文台で、新羅善徳女王(西暦632~647年)に築造されました。
瞻星台は、陰暦の数と同じ361.5個の花崗岩を材料にして積み上げ、基壇は12個の長方形、真ん中の窓へりから上と下の石段をそれぞれ12層で組み上げた巧妙な造り。 瞻星台の頂上の井型の石の囲い部分は、新羅の子午線の標準となって各面はちょうど東西南北の方位を示します。
又、真ん中の窓は真南に向いてあり、春分と秋分の時には日の光が瞻星台の底辺まで照り、夏至と冬至の時には瞻星台の下の部分から日の光が完全に消えて、春夏秋冬を分ける区分点の役割をしました。
瞻星台は、それ自体が非常に科学的な建築物であり、積み上げた一個一個の石にも象徴的な意味が含まれている新羅時代の貴重な築造物です。
コース名 | 慶州「世界遺産」日帰り観光ツアー(釜山出発) |
スケジュール |
釜山ホテル出発 → 仏国寺→石窟庵→エキスポ公園・普門リゾート(車窓見学)→瞻星台(車窓見学)→昼食~皇南パン→古墳公園(天馬塚)→校洞村(校洞法酒)→国立慶州博物館→釜山ホテル到着 *月曜は博物館が休館のために新羅の華麗な宮殿跡地・雁鴨池にご案内いたします。 |
所要時間 | 09:00~17:30(8時間30分) |
料 金 |
★料金は参加人数によって変更になります。 4人以上 98,000ウォン/1名 3名以下 110,000ウォン/1名 |
料金のお支払い | 現金のみとなります(ウォン、円:参加当日のレート適用) |
条 件 |
1. 専用車,昼食代,駐車料 ,通行料,入場料,ガイド料が含まれております。 2. 交通状況により時間変更があります。 |