約450年の長きにわたり、中国とポルトガルの両国民が相互の生活様式や価値観を認め合い、文化を共有・融合してきたマカオ。
世界でも類いまれないこの異文化共生の地の誕生は、16世紀半ばにポルトガル人がマカオに居住を始めたことからスタートしました。
また、ヨーロッパの宣教師たちが布教活動の拠点としても発展していったマカオ。
世界遺産登録されている歴史的建造物に教会が多いのはその証となっています。
時代 |
内容 |
紀元前3世紀 |
秦の始皇帝の地図に、「濠鏡澳」として登場する。 16世紀までは、のどかな半農半漁の小村落でしかなかった。 |
王朝時代 |
(1368年~1644年) ポルトガル人がアジアに進出することにより、マカオの運命が急転! 1498年、バスコダガマのインド航路発見。 1510年インドのゴア、1511年マラッカを占領。 1513年には、ジョルジェアルヴァレスの船が広東に到達し、30年後に両国はマカオで貿易を開始。 1557年、ポルトガルはマカオの居住権を取得し、ヨーロッパ人初の中国入りをはたした。同じころ、フランシスコザビエルもアジアで布教を始め、明や日本、ヨーロッパの中継貿易港、キリスト教布教活動の拠点として栄えた。 |
ポルトガル植民地時代 |
イギリスがアヘン戦争に勝ち、香港を獲得するとそれに便乗してマカオの自由港宣言をした。 1849年、タイパとコロアネを占領。 1887年、「中葡友好通商条約」を結び、マカオを割譲。 1961年、ポルトガルの海外県として観光区に指定され、公認カジノ建設が始まる。 1966年、ポルトガル人優遇社会への不満からデモが起こり(12.3事件)、中国の協力で事態を収拾。以後、中国の影響力が増大した。 1974年、カーネーション革命後、ポルトガル新政権は植民地主義を放棄し、マカオには立法會が建設され、自治が進んだ。 |
中国返還から今日まで |
1987年、「中国ポルトガル共同声明」を締結し、1999年までポルトガルがマカオの統治責任を持つことを確認。 1999年12月22日、マカオは中国に返還され、中華人民共和国マカオ特別行政区となった。 |
今日 |
返還後、一時悪化していた治安も回復。 2005年には22の歴史的建築物と8つの広場がユネスコ世界遺産に登録。カジノ専営権は海外企業にも開放され、カジノやリゾート開発が進み、再びマカオへの注目が集まっている。 |
【マカオの歴史に触れられる名所】
林則徐記念館(澳門林則徐紀念館) アヘン戦争に対抗した中国の役人・林則徐の記念館。 この頃の貴重な資料などが保管されています。
時間:9:00-17:00 / 月曜休館 料金:5パタカ |
【マカオの世界遺産】
古くから街の中心であり、いまもイベントや祝典の開催場所として利用されているマカオを代表する広場。1990年代前半にはポルトガル本国から敷石職人を呼び、ポルトガルの石を使って現在のモザイク模様のカルサーダス(石畳)が敷設されました。周囲をパステルカラーのネオクラシック様式の建物や文化財が取り囲む、とても華やかな雰囲気の広場です。 |
マカオのシンポルとして圧倒的な存在感を誇る聖ポール天主堂跡は、教会の前面だけが残る石造りの正面壁とその隣に建てられた聖ポール大学の総称です。1602年から1640年にかけ聖母教会として建築され、施工には長崎から幕府の弾圧を逃れて渡ってきた日本人キリスト教徒も携わりました。1835年の火事で校舎と天主堂の本体が焼け落ちて現在の姿となっています。 * 天主堂前のイエスズ会記念広場も世界遺産に登録されています。 |
ドミニコ会スペイン人修道士3人によって1587年に建てられたことが始まり。現在の教会は1828年に再建。毎年5月13日に、ここからペンニャ教会まで聖母像を送る巡行「ファティマ聖母マリアの行列」が有名です。 http://m.utravelnote.com/macau/see/domingos * 教会前に広がるカルサーダスを敷き詰めた広場も世界遺産に登録されています。 |
かつては竹と木で造られていたマカオで最も古い教会の一つで、1565年に3人のイエズス会修道士がここを本拠に定めたことから、マカオでのキリスト教布教の発祥の地とされています。 http://m.utravelnote.com/macau/see/antonio
* 教会横のカモンエス広場も世界遺産に登録されています。 |
1617年から1626年にかけてイエズス会との協力で築かれたマカオ最強の防御施設。 |
セナド広場に面するこの美しい純白の建物は、日本や中国を管轄した初代マカオ司教ドン・ベルキオール・カルネイロが1569年にアジア初の慈善福祉施設として設立したものです。 現在は建物の正面1階が公証役場となっています。 |
セナド広場近くにある大きな教会。 |
1488年創建。マカオ地名の由来にもなったマカオ最古の中国寺院。 正門、中国式鳥居と4つのお堂から成り、1つのお寺に異なる神々を祀っていることから 多様な新興に支えられた中国文化の代表例とされています。 http://m.utravelnote.com/macau/see/magok * 媽閣廟前のバラ広場も世界遺産に登録されています。 |
1622年から1638年にかけて築かれた、マカオで一番高い場所(海抜92メートル)にある要塞。頂上にはギア教会とギア灯台が建っています。 |
1888年に建立された神童ナーチャを祀る小さな中国式寺院。 聖ポール天主堂跡と並んで建つこのささやかな廟は、東洋と西洋が共存するマカオを象徴するという理由から世界遺産に登録されました。 |
1874年、ヨーロッパ列強国が中国の植民地化政策を進めていた時代に、ポルトガルがマカオの治安維持のためインド・ゴアから派遣した、ムーア人兵士の寄宿舎として建てられました。 マカオでは珍しいイスラム様式の建物です。 現在も、マカオ港務局事務所、海上警察本部として使われています。 http://m.utravelnote.com/macau/see/moorish-barracks |
本来は商人たちの集まる場所でしたが、 地元の中国人コミュニティーにとって重要な宗教的役割も持っていました。 |
マカオに居住し始めたポルトガル人に貴重な水を提供してきた場所。 現在は昔の面影はありませんが、広場右奥にある壁の2つの口からは水が流れ続けています。 http://m.utravelnote.com/macau/see/lilau
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鄭家屋敷 中国近代初期の維新派を代表する資産家で、孫文や毛沢東に影響を与えた鄭観應。 その父親によって1881年に建てられた屋敷跡です。 港務局から続く通りに沿って120mもの奥行をもつ堂々たる邸宅。 中国の伝統家屋でありながら、インドや西洋のデザインを取り入れた建築や装飾が特徴です。 |
盧家大屋 1889年に建てられたこの邸宅は、マカオにいくつもの大きな建物を所有していた中国広東省生まれの貿易商・廬華詔の屋敷。灰色レンガを使い2階建てで中庭がある伝統的な中国式住居ですが、様式や建築技術は東洋と西洋の両方が贅沢に取り入れられており、建造物としての価値と芸術性の高さから保護・保全の対象となりました。 |
1569年にイエスズ会によって創建された、マカオ初期の教会のひとつ。 当初は木造でしたが、1846年、石造りで威厳のある現在の規模で再建されました。 教会としては珍しいターコイズブルーの天井、贅沢なシャンデリア、ステンドグラスなどが見もの。 マカオで最もお洒落な教会と言われ、人気の結婚式場にもなっています。 http://m.utravelnote.com/macau/see/lawrence |
イエスズ会アジア布教の宣教師育成所として1728年に造られた修道院。 独特のドーム型の屋根は、かつてマカオ半島のランドマークのひとつで、マカオ有数のコンサート会場としても知られています。 聖堂右手には、聖フランシスコザビエルの右上腕骨の一部が安置されており、 ガラスケース越しに見ることができます。 http://m.utravelnote.com/macau/see/joseph |
聖オーガスティン広場 ドン・ペドロ5世劇場、聖ヨセフ修道院及び聖堂、ロバート・ホー・トン図書館が建ち並ぶエリアの中心にある"歴史の交差点"。 コントラストのはっきりした模様を描く石畳(カルサーダス)が敷き詰められ、南国らしいガジュマルの木や、可愛らしいレトロな街灯、コロニアルな色彩の建物が広場のまわりに並びます。 |
1860年、マカオ在住のポルトガル人による東洋初の男性専用社交クラブ「マカオ・クラブ」が開設した娯楽施設で、中国初のヨーロッパ式劇場(オペラハウス)です。 1993年に修復され、現在も公共も催事や祝賀会などの会場に利用されています。 入場はできませんが、美しい外観だけでも見る価値ありです。 |
ドン・ペドロ劇場の裏手にある檸檬色の建物で、ポルトガル人ドナ・キャロリーナ・クンハの住居を、香港の大富豪ロバート・ホー・トン卿が1918年に購入して別荘として使っていました。 1894年以前の建築とされています。 |
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1569年、ポルトガル人の居留が始まった頃に造られた古い城壁。 |
* プロテスタント墓地
* カーザ庭園